こんにちは! 習慣化トレーナー田村です。
本日は、「禅語:水を掬すれば月手に在り」についてお話しします。
この禅語は、とても美しい詩的表現とその言葉の持つ意味合いから、とても好きな禅語の一つです。
禅で使用される言葉としては「水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ」ですが、中国の唐の時代の漢詩『春山夜月』に由来があり、南宋時代の禅僧である虚堂智愚の語録『虚堂録』に引用されています。
少々難しいですが、一連の言葉の日本語訳を載せると、次の内容となります。
ある僧が師匠に問いました。
「「言うこと」と「言わないこと」は、木にからむ藤の蔦のようなものといいますが、これはどのような意味でしょうか。」
師匠は僧に答えていいました。
「水を手ですくってみると、月が手の中の水面に映って、まるで月を自分の手中に収めているかのようだ。また、美しい花を触ってみれば、その香りが衣に染み付くがごとくだ。」
・・・まさに禅問答。なかなか理解が難しい応酬ではあります。
あえて解釈をするならば、「言うこと」、「言わないこと」共に相手に対して何かを伝えるときの表現ですが、それは「木」という本質に絡まる「蔦」(本質でないもの)であるといえるでしょう。
師匠の答えは、水を掬うという「行為」または、花を触れるという「行為」こそが、月または香りという「本質」を得ることができる、と述べていると考えることができます。
あれこれ言葉を費やすよりも、水を掬うという無心の行為によって、天高く輝きを放つ遠い存在であるはずの月を、実は自らの手の中に収めることができている。
つまり、人間の本質(悟り=心の平安とあえて表現します)を得るには、言葉であれこれ考えることは必要ではなく、その行動こそが一番の近道であるという意味であると解釈できます。
私は昔からとても引っ込み思案な性格で、自分のしたいことがあっても、「これをしたらどうなるだろう」、「周りからどう見られるだろう」ということばかりが頭に引っかかって、なかなか行動に移せず、後で後悔することが多くありました。
ただ、頭の中でいくら考えても、行動をしなければその結果は出てこないし、自分の望む目標も遠くで輝く月のままでしかありません。
「水を掬すれば月手に在り」という言葉と出会い、一歩踏み出すことの大切さを気づかされたと感じています。
その行動の結果が、正解であろうと不正解であろうと、その水を掬うという行為そのものにこそ価値がある。その純粋な心をこれからも大切にしていきたいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
本日はここまで(^^)/
また明日~。
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