こんにちは! 習慣トレーナー田村です。
本日は禅語「他は是れ吾れにあらず(たはこれわれにあらず)」についてお話ししたいと思います。
この言葉は、日本の曹洞宗の開祖道元禅師(1200~1253年)の『典座教訓』に出てくる、道元禅師が中国での修行中に教わった出来事からの引用です。
「他は是れ吾れにあらず。・・・・更に何れの時をか待たん」
(他人は私ではない。・・・今しなければいったい何時するというのだろうか)
道元禅師は、禅の修行のため、中国に留学し、天童山という修行道場で修行に励んでいた時の話です。
禅宗では修行僧一人一人に役割が与えられており、「典座(てんぞ)」というのは、修行僧に食事を提供する役割の僧のことを指します。ある夏の暑い日に、道元禅師が寺内を歩いていると、一人の年老いた典座僧が仏殿の前で椎茸(諸説あり、海藻とも)を干していました。その日は特に日差しが強く、敷き瓦も焼けるようで、典座僧は滝のような汗を流しながら一生懸命作業をしていますが、見るからに辛そうです。背は弓の様に曲がり、眉は鶴のように白い。
道元禅師は辛いだろうと思い、「なぜ下働きの若い人間にやらせないのか」と問いかけます。その典座僧はそれを聞くなり、「他の人間にこの仕事をさせたのであれば、それは自分がやったことにならない。(他は是れ吾れにあらず)」とぴしゃりといいました。
道元禅師はぐっと感じるものがあったものの、老典座があまりにも辛そうであることから、「それでは、こんなに暑い時間に作業せずとも、もっと涼しい夕方にされてはいかがでしょうか」とききました。老典座は、「今この暑い時間に椎茸を干さずして、いつ干すのか(更に何れの時をか待たん)」とこたえたとのことです。
禅僧における作務(寺内で与えられた役割による作業)は、単純な仕事としての役割だけではなく、自分の修行の為の行為でもあります。その点を若かりし道元禅師はまだ認識していなかったことによる逸話ではありますが、禅の本質にも通ずる話です。
振返って我々の生活においてはどうでしょうか。
今自分がやらずにいつ誰がやるのか?
日頃組織の中で仕事をしていると、大小問わず様々な問題、課題、作業が湧いて出てくるものです。その中でも、重要であり、緊急性の高い課題をまずは優先的に処理をし、その他の重要性は低いものの、緊急性の高いものを捌いていくということで日々の業務を回しています。
そのような業務の取り回しの中で、緊急性は低いものの、実は重要度が高い課題というのも出てきます。今は大きな影響はないものの、放っておくと致命的なリスクとなりうる事項や、今のままでも業務は回っているものの、本質的な改善ができればもっと効率的な仕事につながるような業務改善の提案等がそれに該当します。
日々の仕事で手いっぱいの場合、まずは緊急の仕事を優先すべきではありますが、ともすると単なる作業に追われて、本質的な課題への対応がおろそかになるという事態にもなりかねません。
ついつい忙しいことを言い訳にして、「急ぎではないし、他の誰かがやってくれるだろうから今はやめておこう」という甘い考えが湧いてくることも多くあります。
家庭生活の中でも同じことが言えます。
日々の家事や学校、親戚との行事に忙殺されて、夫(妻)として、親として、将来的な目標や目指す姿、本当はやってみたいことについての本質的な話や相談を先延ばしにしてしまっていることはないでしょうか。
誰かがやってくれるだろう、今でなくていいだろうとノンビリしていると、いつの間にか定年や人生の終末を迎えてしまうことになりかねません。
「他は是れ吾れにあらず。・・・・更に何れの時をか待たん」
当たり前のことを話しているようでいて、その実践には強い意志と固い決意が必要です。無常迅速。人生はとても短い!
「人生は何事をなさぬにはあまりにも長く、何事をなすにはあまりにも短い」
中島敦(作家)
最後までお読みいただきありがとうございました!
本日はここまで(^^)/
また明日~。
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